小説 Kitamae ~荒波と刻を超えて~ 小説 Kitamae ~荒波と刻を超えて~

第9回 田辺幸成は北浦の信じられない秘密を明かす。北浦の正体とは……

 

「あの北浦誠一という男はね……本当の名前は誠太郎。

 北前船に乗っていた男なんですよ」

 田辺幸成が語り出したのは、にわかには信じられない話だった。

 十九世紀初頭の酒田。そこに誠太郎という名の少年がいた。彼は高田屋嘉兵衛に憧れ、北前船の船主を志し、商人として、船乗りとして、その腕を磨き、やがて嘉兵衛の支援を受けて、星辰丸という北前船を手に入れた。

「その誠太郎が、あの北浦さん……北浦誠一さんだっていうんですか?」

 澪が尋ねると、幸成は深くうなずいて答えた。そして、

……信じられないかな?」

 逆に問いかけられ、澪は困惑した。

「信じられません……いえ、それでも、あぁ、そうなんだと、信じている自分もいます」

 矛盾は承知だ。だが、それが正直なところだ。

 短い時間ではあったが、北浦と行動をともにして生まれた疑問、その答えとして、彼が北前船の時代から来た男だというのは……それなりの説得力を持っていた。理屈ではなく、北浦という男が持っていた空気感のようなもの、どこかこの時代……否、世界とずれている感じ……そう言われれば納得もいく。

 とはいえ、そのまま呑み込んでしまうことも、また難しい。これまで生きてきた世界の常識が根底から崩れてしまう。

「すぐに信じろ、というのも無理な話だとは思う。それを承知で、もう少し話を聞いてほしいんだ。と、その前に。このままここで立ち話というのもなんだし」

 土蔵を出た澪たちは、とりあえず船箪笥を積み込んだ。駐車場に車を停めたまま、澪は運転席に、幸成は助手席に座り、改めて話をする……幸成の話を聞くことになった。

「あれは何年前だったか……釣りが趣味でね、僕は。その日も仲間たちと沖に船を出していて。そこで見つけちゃったの。波間にぷかぷか浮いてる誠太郎、いや、わかりやすいように、北浦さんと言っておこうかな。慌てて引き揚げてみたらまだ息はあった。それはよかったんだけど、僕ら驚いてね。なにしろ着物に丁髷だったから。映画の撮影? そう思ったんだけど、鬘とかじゃなくて、ほんとに月代……わかる? 頭も剃ってたしね」

 幸成の語る光景を頭に浮かべてみた。

 酒田港沖で釣り船に引き揚げられる、丁髷で着物姿の男……やはり現実味が欠けている。

「それでどうしたんですか?」

「どうするもなにも……救急車呼んで、警察も来て……事件の可能性もあったからね。ところが本人の記憶も曖昧でどこの誰かもわからない。まぁなにかのご縁と思って、僕がしばらく面倒見ることにしたんだ」

「あの戸籍とかは……

「記憶喪失者の処遇については決まりがあってね。自治体の指示で病院での診察が義務づけられている。北浦さんの場合は、その段階になっても記憶は一切回復しなかった。言葉もたどたどしいままでね。それから警察による身元の確認があったかな。指名手配や失踪人との一致がないかとかを調べるんだ。でも、これも該当しなかった。本来なら、その後、民生委員の手を借りるんだけど、僕が後見人になることにして、それで改めて戸籍を取得してね」

「なるほど」

 と、澪も納得した。数は少ないだろうが、確かに記憶喪失者はいるわけで、戸籍がないままでは生活のしようもないはずだ。

 北浦誠一という名前も、その際に幸成がつけたものだった。

「最初はね、僕の会社で簡単な手伝いをしてもらって。そこでわかった。北浦さんはかなり賢い。記憶喪失だから当然なんだけど、知らないことばかりでも、いちど見聞きすれば絶対に忘れない。これは後から知ったことだけど、若くして北前船の船主になってるんだから、当然のことなんだけど」

「どういうことです?」

「風見さんも勉強してるんじゃないの? 当時の北前船はいわば、動く総合商社。その船主兼船頭であれば、様々な技能が求められるんだ。まず船乗り……荒くれのイメージがあるけど、これも当然、知的な技能職でしょ。そして、同時に商人でもある。北前船の商売は難しい。積極的に相場を読み、売買の機会を見定める必要がある。読み書きは当然、頭がよくなきゃ務まらない。海で見つけてから一年くらい経つ頃には、もう日常生活にも不安はなくなっててね。それだけ知能も吸収力も高かった」

「そう……ですよね……今みたいに情報機器があるわけじゃないし。情報を集めて分析するところから、全部、自分の力量ですもんね……

 幸成は「うん」とうなずき、

「うちは息子たちが全部独立しちゃったから、特に跡継ぎもいなくて。だから、いろいろ資格をとらせたら、正直、このまま北浦さんに会社任せてもいいかなって、それくらい惚れ込む……いや、冷静にね、評価してたの。ところが……

 休日のある日、幸成は酒田のいろいろな場所を北浦に案内することにしたのだという。

「特別な考えがあったわけじゃなくて。ただ、この先も酒田で暮らすんだったら……特に不動産の仕事していくんだったら、町のことは知っておいた方がいいでしょ? で、この酒田で案内するといったら……

……北前船」

 澪は小さな声で呟いた。

「そう、北前船。鐙屋本間家、それに資料館なんかを案内してね。振り返ってみれば、資料館で北前船の模型を見た頃から様子が変で。なんだか顔色が悪くなってたんだ。でも、北浦さんも平気だっていうから、僕も見過ごしちゃって。相馬樓を見せて、その後、山王くらぶの前に行った時だね。北浦さん、蒼い顔になっててね。資料館に戻りたいって言い出して」

「北浦さん、記憶をとり戻してたんですね」

「うん。最初に資料館で船模型を見た時にね、なにか急に頭にスイッチが入ったようだったらしい。歩いているうちにその記憶がどんどんはっきりして、山王くらぶに着く頃には、もう誠太郎としての記憶をとり戻していたようで」

……

「それで北浦さんはその日のうちに、とり戻した記憶のすべてを僕に話してくれた。とはいっても、こちらの世界に来る前後のことはまだ記憶が曖昧でね」

 そう言うと、幸成は黙り込んだ。これでもう、とりあえずの話は終わり、という印のようだった。

 なんと言うべきか。

 なにを言うべきか。

 混乱する気持ちを必死に整えながら、澪はその沈黙を破った。

「田辺さんは、どうして北浦さんのその話、信じたんですか? 時間を超えたなんて、途轍もない話を」

「いやー、それは難しいとこなんだけどね。単純な話で、嘘言うような人には見えなかったんだ」

「それはわかりますけど」

 澪は真っ直ぐ前を見つめた。

 この話、どこまで信じたものか。

 幸成の話していることはすべて本当だとしても、彼に対して北浦が嘘を語った可能性はある。

 それ以前に、幸成が自分をからかうため、まるっきりの作り話をしている可能性も否定できない。

 だが……

 澪は自分の掌を見た。

 あの不思議な石盤。石に刻まれた紋様が動いた不思議。

 そして、あれを手にした瞬間、見た……否、体験してしまった不思議なビジョン。現実と寸分違わぬリアルさ……短い間だったが、自分は確かに〝北前船〟を体感した。

 あの不思議な経験自体が、北浦が時を超えたということの、そのなによりの証拠なのではないか……

 

 

「あの、田辺さん」

 北浦が過去から来たのかどうか、それはいちど保留しておくことにした。ここで話していたところで、幸成からこれ以上の確証を得ることはできないだろう、

「北浦さんは、どこへ行ったんですか? それからあの石盤……北浦さんが持っていったんですか?」

「うん。北浦さんが持っていった」と幸成はうなずき、

「あの石盤は『刻磁石』(ときじしゃく)と言ってね。北浦さんはそう呼んでいた」

「刻……磁石……あぁ」

 磁石は磁石でも方位磁石のことかと、澪は納得した。あの不思議な紋様、言われてみれば方位を示すもののように見えないこともなかった。

「それで、なんなんですか、刻磁石って」

 澪に尋ねられても、幸成は首を横に振るばかりだった。

「名前からして、北浦さんが時を超えてきた……それとなにか関係があるものだとは思うけど……それ以上は」

「聞かされていないんですね」

「ただ、北浦さんはあれをずっと探していた。記憶をとり戻した後、改めて北前船の歴史を学び直して、資料館で働くようになったのも、そのためなんだ。それであの刻磁石を手にした北浦さんが言ってた。これは完全なものではなく、針に相当する、もう一枚が必要だと」

「つまり、それを探しに行った……?」

 幸成は「うん」とうなずいて答えた。

「風見さんが気絶してる間に、あの船箪笥からまだ見つかったものがあって。僕は内容までは直接見られなかったんだけど、小さな紙……書きつけがあってね。北浦さんが言うには、その石盤、バラバラにされて、各地にあるって内容らしくて。その欠片も、あの石盤と同じように、船箪笥に隠されて……

「なんだか、RPGみたいな話ですね」

 正直、また現実感が遠のいてしまった。

「それはね、僕も思った。ただ、北浦さんが時を超えてきたって話自体が、まぁ、そういうことなわけでしょ。伝説とか、今の感覚でいえばゲーム的というかアニメ的というか。だから、僕はなんだか素直に受け入れちゃったな」

……

 確かに幸成の言うことも、もっともなのかもしれない。時を超えてきたという途方もない話の前では、そんなゲームの〝アイテム集め〟みたいな話も些事に過ぎない。

「北浦さんはそれで? その書きつけに、場所のことも書かれていたんですよね?」

「追いかけるつもりかな?」

 幸成に低い声で返され、澪は言葉に詰まった。

「そ、それは……

「あの時の言葉、覚えてるかな?」

 幸成はむしろ優しい口調で言ったが、澪は背筋が震える思いだった。

 ──『北の海のことを知ろうとするなら覚悟が必要ですよ』

 覚えている。

 そして、今となっては、あの言葉は明確な重みとなって、澪の肩にのしかかっている。

「田辺さんは、あの時、もう、こういう事態を予想していたんですか?」

「とんでもない」幸成は首を横に振った。「あなたの顔を見て、気づいたらあんなことを口走っていた……本当にそれだけ。でも……これも信じにくい話かもしれないけど、誰か……なにかが僕の口を借りて、あぁ言わせたんじゃないのかな」

 幸成の言葉を鵜呑みにはできなかったが、反論する気持ちも湧かなかった。

「北浦さんはね、橋立、河野の船主集落からまず訪ねると言っていた」

 ぽつりと呟くように幸成は言った。

「橋立? 河野? 船主……集落?」

橋立というのは石川の加賀、河野は福井の南越前のこと。それから、船主集落というのは、北前船船主たちが住んでいた集落のこと。当然、昔のことだけど、その二箇所は、今でも当時の雰囲気が色濃く残っているところでね」

……

「どうする、風見さん?」

「どうするもこうするも……

……

「私も社会人ですから。仕事がありますから」

……

「だから、行けないですよ」

 澪はそう言うと、車のエンジンをかけた。

──田辺さん、帰りますよ、酒田に」

 そして、少し乱暴にアクセルを踏んだ。

 

 

第9回終わり 第10回へ続く

毎週金曜日更新 次回更新日:10/5

動画「北前船 西廻り航路の秘宝」はこちら