北前船とは

北前船とは

北前船ってどんな船?

北前船とは

大阪と北海道を結んだ経済動脈

①江戸時代中期(18世紀中ごろ)〜明治30年代
②大阪と北海道を、日本海回りで
③商品を売り買いしながら結んでいた商船群
北前船は、そういう動きをしていた商船を総称する呼び名です。

ポイントは「売り買いしながら」……単に荷物の運搬をしていた船ではない、
ということです。寄港地で「安い」と思う商品があれば買い、
それが高く売れる港では積み荷を売りさばきながら、
大阪と北海道の間を航海していました。

 

 

一攫千金の夢物語「北前船」

小浜の写真師・井田米蔵が、明治末期から大正期にかけて撮影した北前船(井田家所蔵古写真・福井県若狭歴史博物館提供)

商品を売買しながら日本海を航行

江戸時代の中ごろから明治30年代にかけて、大量の荷物を積んで日本海を往来していた多くの船がありました。北前船と呼ばれる船です。「北前船とは何か」という定義には、研究者によってこまかい違いがありますが、共通項でくくってみると①大阪と北海道(江戸時代の地名では大坂と蝦夷地)を日本海回りで往復していた、②寄港地で積荷を売り、新たな仕入れもした、③帆船――と言えるようです。
江戸時代、荷物を積んで海を走る船を「回船」と言いました。全国にはさまざまな航路があり、特定の荷物を専門的に運ぶ回船もありました。
その中で最も船の数が多く、ひんぱんに航海していたのは、大阪から江戸へ向かった菱垣回船や樽回船です。何でも運ぶ菱垣回船がまず登場し、後に酒樽を運ぶことから始まった樽回船が現れます。冬は荒海となった日本海に対し、太平洋を走る菱垣回船や樽回船は一年中、何度も往復しました。
このほか、瀬戸内の塩を江戸に運んだ塩回船や、長崎で輸入される絹糸を大阪へ運び、帰りに昆布や干したアワビなど中国への輸出品を運んだ糸荷回船もあります。特に塩は、江戸の近辺(東京湾沿岸)での生産量は微々たるものでしたから、江戸から関東地方各地へも運ばれました。
徳川幕府のおひざ元である江戸は百万人もの人口があり、当時世界最大の都市だったのですが、衣類をはじめ生活必需品を十分には生産できませんでした。だから関西から大量の物資を運んだのです。しかし、帰り船に積む荷物はありません。寄港地も少なく、菱垣回船も樽回船も江戸までの片道運賃で稼ぐしかありませんでした。
これに対して北前船は、寄港地で安いと思う品物があれば買い、船の荷物で高く売れる物があればそこで売るという「商売」をしながら北海道へ往復していた船なのです。これを「買積船」と言い、ほかの航路の回船との最も違う大きな特徴です。

イメージは千石船

北前船には「千石船」というイメージもあります。でも、これは「米を1千石積むことができる大きさ」という意味です。重さで換算すると、150㌧の米です。実際には5百石積み程度の中型船も多かったのですが、北前船史上最大の船は、2400石積みもありました。
船の形としては「ベザイ船」ばかりです。漢字では「弁才」とか「弁財」と書きます。白く、巨大な帆1枚で帆走する和船を想像してもらえばいいでしょう。
弁才船は、瀬戸内海で発達した船型です。江戸中期までは伊勢の伊勢船や、東北・北陸地方の北国船、羽賀瀬船など、地方ごとに特徴的な船型がありました。北前船が弁才船ばかりになったのは、船体が堅牢なのに加え、現在の船と同じように鋭い船首で波を切り裂き、西洋のヨットほどではありませんが、逆風でも進むことができる、すぐれた帆走性能があったからです。

誰でも金持ちになれる夢

千石船で大阪と北海道を1往復すると、北前船は千両もの利益を得ることができました。今なら6千万円から1億円と考えていいでしょう。
見習いの船乗りから始まって船頭になり、お金を貯めて、自分の船を持つと大金持ちになれたのです。武士を頂点とした身分制度のあった時代、自分の才覚と努力で、そんなチャンスをつかむことのできる北前船は庶民の夢物語でもありました。実は北前船には、数多くの遭難記録があります。それでも「北前船の夢」を追う船乗りが、絶えることはありませんでした。

文化も運んだ北前船

北前船は、さまざまな文化も運びました。例えば食文化。北海道の昆布によって、西日本で現在の和食の基礎ができました。
民謡もあります。九州が発祥の「ハイヤ節」は、新潟県の「佐渡おけさ」となり、さらに青森県の「津軽アイヤ節」に姿を変えました。島根県の「出雲節」が、「秋田船方節」になったのも、北前船の船乗りが覚え伝えて、それぞれの地域に定着した結果です。
日本海沿岸各地に残る「裂織」は、古着を裂いて横糸にした織物です。しなやかで、丈夫な木綿は江戸時代の初め、今の大阪府で綿花栽培が始まり、日本人に「衣料革命」をもたらしましたが、寒い地方では綿花が育ちません。裂織は、北前船が運んだ古着など貴重な木綿のリサイクル技術です。そこから派生した「刺し子」は、今でも各地に伝承されています。

 

 

北前船の歴史

明治26年(1893)に建てられた米保管倉庫で酒田のシンボル「山居倉庫」。敷地内には酒田市観光物産館「酒田夢の倶楽」、庄内米歴史資料館が併設されている

近江商人の交易ルート

北前船が登場する以前、北海道の産物を一手に取り扱っていたのは、戦国時代の末期から松前に進出していた近江商人でした。彼らは商品を敦賀で陸揚げし、琵琶湖を経由して大阪へ運んで売りさばきました。
自前の船を持つ近江商人もいましたが、多くは共同で船を仕立て、船乗りを雇いました。その多くは、北陸の船乗りです。後にこの中から自分の船を得て、北海道の産物を大阪で売る人たちが現れます。それが北前船ですが、そのきっかけとして、航路の整備が見逃せません。

北前船の誕生

幕府は寛文12年(1672)、江戸の商人・河村瑞賢に、最上川流域にあった15万石の天領(幕府の領地)の米を、河口の酒田から江戸まで運ぶ航路の整備を命じました。酒田から江戸までは、津軽海峡を通過して太平洋岸を航行した「東回り」の方が近いのですが、とても危険な海域が続きます。そこで瑞賢は佐渡の小木、下関、大阪など10か所を正式寄港地と定め、その他の港に入港した際も無税とするよう沿岸の各藩に通知し、超長距離の「西回り航路」を整備しました。
この航路の安全性を知った津軽、秋田など日本海側の諸藩も大阪まで直航で、年貢米を運ぶようになります。

幕府の西回り航路整備

近江商人の敦賀―北海道航路と、瑞賢の西回り航路のうち酒田―大阪航路が結びついたのが「北前船の航路」と言えます。けれど、すぐに北前船が動き始めたわけではありません。
敦賀で陸揚げする米は減りましたが、近江商人が運ぶ北海道の産物は逆に増え続けました。江戸時代になって全国的に開田が進み、人々の暮らしが豊かになって、昆布や身欠きニシンなどの需要が急速に増えたからです。昆布については、江戸時代になって内浦湾の真昆布の生産量が急増し、京阪神へ大量に供給できるようになったという事情もあります。
そして綿花、イグサ、藍などの換金作物の栽培が瀬戸内一帯で広がるにつれ、肥料の需要が高まりました。ところが九十九里浜(千葉県)など、それまで魚肥となるイワシの大量供給地でも水田開発が進み、地元需要のために西日本へは運ばれなくなりました。イワシに代わる魚肥となったのが、ニシンです。18世紀に入ると、ニシンを煮て魚油を絞った残り粕を肥料にする技術が生まれ、大量に供給できるようになりました。
近江商人に雇われていた北陸の船頭たちは「同じことをやれば大もうけできる」と考えるようになりました。そのために①自前の船を持つ、②近江商人以外の江差や函館の商人と取引する、③大阪の商品問屋と直接取引をする――などの努力を経て、彼らは近江商人から独立しました。
これが北前船です。18世紀中ごろのことでした。

最盛期は明治時代になってから

18世紀末、かなりの強風でも破れない丈夫な帆布(松右衛門帆)が発明されて、大阪―北海道を年に2往復できるようになりました。また北陸だけでなく、各地に「北前船商売」をする船主が登場し、近・中距離をこまめに走らせ始めます。さらに19世紀になって幕府が東蝦夷地(内浦湾から東の北海道)を直轄地としたことから、その産物を江戸へ運ぶ商人も出てきました。こうして北前船は多様になって行ったのです。
実は、北前船の最盛期は明治になってからです。江戸時代は松前藩が松前、江差、函館しか回船の入港を許さなかったのですが、明治3年からどこの港でも交易できるようになったからです。また、西洋式帆船のように複数の帆を装着するなど、船の改良も進んだことも理由のひとつです。

役目を終えた北前船

しかし、明治20年代になると、少しずつ北前船の利益は減り始めました。通信手段が手紙しかなかった時代は、地域によってばらつきがある商品価格を知ることができたのは、実際に各地を訪れる北前船の船頭ぐらいだったので、その「差額」を利用して大きな利益を得ることができたのです。ところが、電信という文明開化の通信手段が次第に普及し、価格情報が北前船の独占ではなくなって来ました。
そして明治24年、東京―青森間の東北本線が全通しました。津軽海峡さえ越えれば、北海道と東京が陸路で直結することになったのです。また、荷物を大量に、しかも安全に輸送できる汽船が次第に普及し始めました。
明治30年代になると北前船はどんどん姿を消し、日露戦争によって北海道周辺の海が危険になったことが、北前船の歴史にピリオドを打ちました。

 

 

船乗りの組織とマネジメント

船乗りの役割を説明した船絵馬の解説図(出典:(財)日本海事科学振興財団 発行『北前船』)

北前船の1年

旧暦2月、現在の暦で3月になると北前船が出帆する季節です。多くの船は大阪を出ますが、船主によっては秋田、酒田、新潟などそれぞれの地元で冬囲いし、「上り一番船」としてまず大阪へ向かい、改めて北海道を目指す船もありました。
北海道に着くのは4月末~5月です。北海道の産物を積み込んで、再び大阪を目指して出港するのは8月ごろになります。多くの北前船主がいた北陸の例ですが、台風シーズンの前に下関から瀬戸内海に入り、大阪・淀川の支流に船を係留し、船頭以外の船乗りたちは、徒歩で帰郷しました。
帰郷した船乗りたちは、毎日のように船主の家で掃除、雪除け、もちつきなど、頼まれれば何でもやりました。でも10日ぐらいは休みをもらい、湯治に行くのが楽しみだったそうです。

乗組員の役割

一方、大阪に残った船頭は、売れ残った積荷があれば売りさばき、翌年春に積み込む商品を仕入れる大事な役目がありました。故郷に帰れるのは、正月の前後ぐらいだったそうです。
米を1千石積める北前船には、通常11~13人が乗り組んでいました。
最高責任者は、船頭です。船の運航から商品の売買、乗員の統率まですべてを統括していました。
その下には、「三役」と呼ばれる重要ポストがありました。
まず、現在の航海士にあたる「表司」です。出帆すれば昼夜を問わず進路を見定め、目的地までの航路を指示します。次に、帆や舵の操作、その他すべての甲板上の作業を指揮する「親仁」。水夫長ですね。
「三役」ではもう1人、事務長である「知工」が重要です。積み荷の受け渡しを指示し、帳簿を付け、船頭と相談してお金の出し入れをしました。北前船は大金が動く取引も多く、責任の重い仕事でした。
一般船員は、水主と言います。この中で表司を補佐する片表、舵を動かす楫子、碇を上げ下げする「碇捌」などの職務は、ベテランの役目でした。一番下が、調理担当の炊です。朝は最も早く起きて飯を炊き、寄港しても船の留守番をさせられました。

船乗りの一生

船乗りのスタートは炊です。普通は14~15歳で雇われます。航海を重ねて楫子、碇捌、片表などに成長し、やがて三役、船頭となるのですが、三役や船頭の年齢は40代、50代が多く、炊からは30年もかかるのが普通でした。
船頭は、船主に雇われた「沖船頭」と、自分が船主の「直乗船頭」に区別されます。北前船の船頭は取引の責任者でもあるので、人並み以上の「読み書き算盤」の能力が求められました。それで、知工がしばしば船頭に昇格しました。航海は、しっかりした表司と親仁がいれば間に合ったからです。
中には30代で沖船頭になる人もいれば、50歳を過ぎても水主のままという人もいました。船乗りの出世は、実力本位だったのですね。

沖船頭から船主へ

千石積みの弁才船を1艘造るには、千両かかるのが相場でした。中古船でも5百両はしました。しかし沖船頭から独立して、船主となった人は数え切れません。そんな金をためられるほど北前船の船頭の給料が高かったのかと言うと、そうではありません。
大阪―江戸を往復した菱垣回船や樽回船の船頭は、年に30~40両の給料がありました。当時の花形職業だった大工の棟梁は、年収が25両ほどでしたから、最も高給の職業でした。
これに対して北前船の船頭は、1航海の給料がたった2、3両でした。しかし船頭には、船主の積み荷の1割程度、自分の商品を積むことが許されていました。千石積みの北前船の利益は千両にもなりましたから、単純に計算すると、船頭は1航海で百両を稼ぐことができたのです。この売買を「帆待ち稼ぎ」と言います。他の航路では許されませんでしたが、北前船では早くから認められていました。
三役以下の乗員にも、「切出」というボーナスがありました。船主が、売上高のうち5~10%を船乗りに分配したのです。こうすると船乗りたちは船主の荷物を大切に扱い、船頭が自分の荷物ばかりを優先させないよう見張る役目も果たしてくれます。よくできた「社員管理術」と言えますね。
こうして、船頭になるまでにも貯金できる仕組みがあったので、遭難の危険があっても北前船に乗りたがる人は絶えませんでした。身分制度が厳しかった江戸時代、北前船は、荒海へ乗り出す勇気と、商売の才覚さえあれば、普通の庶民が大富豪になれる「夢物語」だったのです。

 

 

動く総合商社「北前船」

小浜の写真師・井田米蔵が、明治末期から大正期にかけて撮影した北前船(井田家所蔵古写真・福井県若狭歴史博物館提供)

交易で成り立っていた松前藩

北前船は、大阪―北海道の往復が基本的な航路です。北海道に着くまでにあちこちの寄港地で、売れそうな物は何でも買い、帰りにはニシン、昆布などを満載して瀬戸内海を目指すのが通常でした。それは北海道唯一の大名領、松前藩の特殊事情にもよります。
稲を育てられなかった江戸時代の北海道では、主食の米はもちろん、稲わらもないのでナワ、ワラジをはじめ、ほとんどの生活物資を本州から手に入れなければなりませんでした。松前藩の人々はその資金を、アイヌの人たちが獲る鮭などの海産物を物々交換で手に入れて、松前の近江商人に売って得ていました。つまり松前藩は、最初から、交易で成り立っていた大名領だったのです。

必需品の米と塩

米は、物々交換でそのおいしさを知ったアイヌの人々も欲しがる商品でした。大阪の米市場には、日本海沿岸から西日本全域の大名の年貢米が集まりました。北前船は大阪を出帆する時に米を仕入れましたが、敦賀や新潟、酒田などでも大名の年貢米は売買されました。その相場を見て、安い米を買い足し、逆に高ければ積荷の米を売りました。
もうひとつ、瀬戸内の塩は、日本海へ出ればどこででも売れました。瀬戸内に塩田が広がった理由を、よく「遠浅の浜辺が多く、晴れた日も多いから」と説明されますが、もうひとつ、北前船の役割が見逃せません。北前船によって販路が広がったから、安心して生産量を増やすことができたのです。
また北海道では、それまで乾燥させるしか保存方法のなかった鮭を、塩鮭に加工できるようにもなりました。そして19世紀、北海道の東半分を幕府が直轄地としてから江戸へ直航する船が現れ、江戸っ子が塩鮭で朝飯を食べられるようになりました。

綿花、木綿、古着

江戸初期、河内(大阪府)で綿の本格的な栽培が始まり、糸をつむいで織った木綿は、それまでの麻などの布地に比べて柔軟性があり、吸湿性にもすぐれ、日本の衣類に革命を起こしました。しかし綿は熱帯性の植物で、北国では栽培できません。だから木綿は古着でも、端切れでも大歓迎され、北前船の必須商品となりました。

鉄、和紙、石……

江戸時代の鉄の8割は、中国山地で生産されました。砂鉄を原料にした「たたら製鉄」です。北前船が運んだ鉄は鍬や鎌などの農具、鍋、飯を炊く釜などの生活用具に加工され、人々の暮らしを支えました。また各地に刃物産業を興すことにもなりました。
紙も、北前船が原料のコウゾやミツマタなどを運んだおかげで、各地で生産され、重要な商品となりました。
石も、大事な積み荷です。船を安定させるためもバラスト(重石)として積み込まれました。北海道交易が近江商人だけだった時代は、福井県坂井市の三国で積み込む笏谷石ばかりでしたが、大阪を出発する北前船の時代になると、瀬戸内各地で積み込む御影石が主流になりました。
このほか、陶磁器、漆器、ロウソクなどの生活用具から、お菓子や人形まで、北海道への下り船ではありとあらゆる物を運んだと言えます。
そういう意味で、北前船は「動く総合商社」だったのです。

上り船のニシンで大儲け

しかし、千石船の1航海で千両(今なら6千万円~1億円)という北前船の利益の中で、「下り船」は百両ほどです。残り9百両の利益を生んだのは、大阪へ戻る上り船です。
最大の商品は、ニシンでした。春になると海の色が変わるほど海岸に押し寄せた北海道のニシンは、煮て魚油を絞り、残ったニシン粕を発酵させて肥料にします。これが仕入れ値の5倍、時には10倍でも売れたのです。北前船の大もうけの秘密は、ニシンだったと言ってもかまいません。

長崎俵物と昆布

上り船には干したアワビ、ナマコ、フカヒレも大量に積み込まれました。この3品は俵に詰めて運ばれたので俵物と呼ばれ、長崎から中国への輸出品になりました。
中国へは昆布も大量に輸出されました。中国大陸の内陸部に多かったバセドウ病という病気に効く薬草として、甲状腺ホルモンの異常が原因の病気に効く薬でした。
古くから日本では昆布を食べていましたが、北前船が大量に運んだおかげで、和食の基本である昆布出汁が庶民の味となり、富山県の昆布巻きかまぼこ、各地のおぼろ昆布、そしてアナゴの昆布巻きのような料理も広まったのです。
北前船の恩恵は、さまざまな形で現在まで及んでいるのですね。