小説 Kitamae ~荒波と刻を超えて~ 小説 Kitamae ~荒波と刻を超えて~

第1回 山形・酒田は風の街だ。そこではいつも強い風が吹いている

 

──酒田は、風の街だ。

 風見澪が「特急いなほ」で酒田駅に戻ってきたのは、日曜の五時過ぎのことだった。

 ホームに降りた澪を出迎えたのは、頬を叩くような強い風だった。

「うーん」

 小さな駅の構内を出たところで、自然と伸びをしていた。

 新潟から在来線特急で二時間、その前も東京から新潟への移動で、新幹線で二時間、まだ二十四歳の澪の肩も背中も凝ろうというものだ。

 三月の終わりということもあって、日もかなり長くなってきた。だが、前夜の雨から続く曇り空に、酒田の駅前は灰色に沈んでいた。いつもなら学校帰りの高校生が集まり、多少は賑やかな空気になるこの場所も、今日は休日、そして春休み期間だった。駅を出てすぐ左手にある土産物屋だけが、場違いに華やかな雰囲気だった。

 酒田駅前からの眺めもまた、少し寂しい。駅前から望む通りはシャッターが降りた店が多く、商売をしている店を数えた方が早い。そんな中にあって、一際存在感を発揮しているのが、黒と赤の大きな……人の背よりも高い、獅子の頭、「酒田獅子頭」だ。雄の黒獅子と、雌の赤獅子が一対になって置かれ、駅を出た旅客を出迎えている。

酒田獅子頭

 

 そもそも酒田獅子頭は江戸末期から、郷土玩具として酒田でずっと作り続けられてきたものだ。魔除けとしても重用され、無病息災を祈願されてきたというが、酒田市民にとってその意味合いが大きく変わったのは、今からおよそ四十年前の酒田大火の時だ。

 酒田大火については、二十代半ばの澪は当然、直接は知ることはなかった。だが、学校の授業で、そして親や親戚たちから散々聞かされてきた。

 一九七六年=昭和五十一年十月二十九日。

 その日の夕方、映画館で火災が発生した。酒田は風が強いので有名だ。その日も強風で、炎は風に煽られ、たちまち酒田の街を焼き尽くした。翌日の明け方に鎮火するまで、その焼失面積は実に二十二・五ヘクタールに及び、被害総額は四百億を超えたという。

 だが、酒田の市民は逞しかった。全市で復興活動に当たり、二年半後には復興祭が行われ、その際に酒田獅子頭が復興のシンボルとして選ばれたのである。

……さて、と」

 澪の自宅……両親と同居している家は住吉町の方にある。歩いていけないこともない距離だが、小さいとはいえキャリーケースを引いている。澪は迷わずタクシー乗り場に向かったが……

 歩き出した途端、すぐ横からクラクションを鳴らされた。

「お母さん」

 澪の母、律子の車だった。

 彼女は市内で高校の教師を務めている。澪を産んでしばらくは休職していたものの、すぐに復帰して、今も現役のままだ。

「わざわざ迎えに来てくれなくてもよかったのに。タクシー拾おうとしてたんだよ」

「いいじゃない。帰ってくる時間はわかってるんだし」

「まぁそうだけど」

 澪は助手席に乗り込んだ。

「で、どうだったの結婚式は?」

 車を出しながら律子が尋ねてきた。

「うーん、そんな変わらないよ。普通」

 適当な返事をする。澪の周囲は早くに結婚した者が多く、今回結婚した友人で五人目になる。大学を出てすぐ、初めて友人の結婚式に出席した時はそれなりに興奮もしたが、さすがに慣れてしまった。

「だったら東京は?」

 その律子の質問に特に意味はないのだろう。お天気の挨拶のようなものであることは澪にもわかっていたが、どう答えるべきか躊躇ってしまった。

「東京は……

 澪は大学の四年間を東京で過ごしている。在学中は、そのまま東京で就職するのだろう……そう漠然と考えていたが、結果、地元の酒田に戻ることになった。別に東京が嫌になったとか、そういうことではなく、むしろ……

「やっぱり賑やかなのはいいよね。時間の流れまで違う気がする。東京だと私鉄のどんな小さな駅の前でも、酒田よりも人がいるし……

 街の歴史にあまり興味がない澪でも、酒田がかつて、とても栄えた場所であることくらいは知っている。庄内米の集積地として、それを運ぶ海運の要の町として繁栄していた。だが、明治以降、陸上運輸が発展するにつれ、その流れから置いていかれてしまったのだ。今、酒田の人々の多くは港近くの工場に勤めている。澪の父もそんなひとりだった。

「ねぇお母さん。変なこと訊くけど、酒田大火のことってまだ覚えてる?」

「忘れるわけないでしょ。なんども話してるよね?」

「うん」

……でもね、私も小学生だったし、昔のことだから、もうはっきりとは覚えてないの。ただ夜になっても火事は全然収まらなくて、家の外に出てみたら、空まで燃えてるみたいに一面、真っ赤になってた。あの景色だけは忘れられない。それから……

あの夜も、もの凄い風が吹いていた」

 ──酒田は、風の街だ。

 

 

 翌日月曜日の朝。

 自宅を出た澪は本町通りにある酒田市役所へ向かった。

 市役所の庁舎は最近建て直されたばかりで真新しく、その正面脇には、酒田駅前と同じく、一対の酒田獅子頭が守り神のように置かれていた。

酒田市役所全景

 

 駐車場に車を停めた澪は、商工観光部観光振興課のオフィスに入った。

 そこが彼女の勤務先だ。本来、異動は年度単位が基本だが、急な欠員が出たため、昨年末、市民課から急遽異動になったのだ。

……で、まだうちの仕事に慣れてないところ恐縮なんだけどね」

 始業時間が過ぎてすぐ、澪を呼び出して、そう話を切り出してきたのは、彼女の上司の田辺紀生だった。田辺はもう四十を過ぎていたが、童顔で歳よりかなり若く見える。見た目だけでなく、実際頼りないところもあって、課内でも少々軽んじられているところがあった。

「なんでしょう……

 そんな田辺からとはいえ、上司のいきなりの呼び出しに、澪は緊張していた。慣れた市民課の仕事から、畑違いの観光振興課に異動になって、まだ十分な仕事ができているとは言い難い、それは自分でもよくわかっていたし、そもそも澪はどんなことでも、どうしてもネガティブに捉えてしまうところがあった。

「風見君は、北前船ってわかる?」

「え?」

 いきなりの質問に澪は一瞬、戸惑ったが……

「あの、わからないことはないですけど。江戸時代のあれ、ですよね? 北海道から昆布を運んだり、あと、お米を運んだり……そういう船ですよね? 酒田だと、その頃の史跡なんかが、けっこう残ってますよね、あ、あと、あの日和山公園の池に浮かんでるアレ、とか」

 頭に思い浮かんだことを、つらつらと口に出してみたが、知っているのはそれくらいのものだった。

「うーん」と唸って、田辺は腕を組んだ。

「まぁ、いいか。どのみち、これから勉強してもらうんだから、事前にあまり知らなくても関係ないし」

「勉強? どういうことですか?」

「あー、ごめん。ちゃんと説明する。ちょっとあっちに行こう。やっぱり少し時間かかりそうだし」

 机の上に置いてあった分厚いプリントアウトの束をつかむと、田辺は澪を隅の打ち合わせスペースに連れていった。

「つまり、これなんだ」

 田辺が滑らせてきたプリントアウトの表紙には、

「日本遺産『荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~』」

 と、大きく記されていた。

「日本遺産……これはわかります」

 澪はそう答えた。

「まぁ、それでも一応はレクチャーしておくけど」

 と、田辺はまた別の紙束をとり出して、

「えー、『日本遺産』は平成二十七年度から始まった制度ね。──『地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを『日本遺産(Japan Heritage)』として、地域、自治体が主体となって申請して、文化庁が認定するものだね。

 これまでの文化財等との違いは『地域に点在する遺産を「面」として活用し,発信することで,地域活性化を図ることを目的としている点』にある。ちなみに、これが今年の春までに認定された日本遺産ね、あ、ざっと見るだけでいいから」

 言われた通り、澪は渡された認定日本遺産のリストに目を通した。

「近世日本の教育遺産群学ぶ心・礼節の本源」とあるのは、茨城県・水戸市、栃木県・足利市、岡山県・備前市、大分県・日田市の日本遺産だ。これは近代教育制度導入以前の藩校、郷学、私塾などの教育機関の「ストーリー」をまとめた日本遺産だ。

 群馬県の桐生市、甘楽町、中之条町、片品村の「かかあ天下ぐんまの絹物語」は、上州(群馬県)において、盛んだった絹産業……養蚕、製糸、織物産業を支えた女性たちの活躍についての「ストーリー」だ。

 他にも滋賀県の大津市、彦根市、近江八幡市、高島市、東近江市、米原市、長浜市による「琵琶湖とその水辺景観祈りと暮らしの水遺産」や、京都府の宇治市、城陽市、八幡市、京田辺市、木津川市、久御山町、井手町、宇治田原町、笠置町、和束町、精華町、南山城村の「日本茶800年の歴史散歩」等、多彩なタイトルが並んでいた。

「そこで、この酒田にも関わりの深い北前船の『ストーリー』が日本遺産に認定されてね。ええと、長いからまだタイトルをちゃんと覚えられてなくて……

 田辺はプリントアウトを手元に引き寄せて、

──日本遺産『荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~』か。ちなみに今回の日本遺産の認定には、函館市、松前町、鰺ヶ沢町、深浦町、秋田市、酒田市、新潟市、長岡市、敦賀市、南越前市、加賀市……北海道から福井まで、日本遺産の中でも珍しいくらい、広域な自治体の協力で認定を勝ちとったんだ」

……はぁ」

 言われてみれば、市役所内でそんなポスターを見た記憶もあったが……

「で、うちの観光振興課でも、当然、これに対応したスタッフを用意というか育成する必要があって……上ともいろいろ話して……風見君にお願いできないかと思ってね」

 そこで言葉を切って、田辺は澪の顔を覗き込んできた。

……

 ──正直、積極的にやりたいという気持ちはなかった。だが、お願いといっても、もう自分が指名されていることだし、それをひっくり返してまで断るほど積極的……消極的な理由も見つからなかった。

……はい、どこまでできるかわかりませんけど……頑張ります」

「ありがとう風見君、助かるよ」

 田辺が無邪気な笑顔を浮かべたので、澪は自分の咄嗟の選択に、少しだけ救われた気になった。どのみち、異動になってからまだ、観光振興課での自分の立ち位置もはっきりさせることができていなかった。それが見つかっただけでも、悪いことではないだろう。

 なにも問題はない。

……ただ)

 ──北前船に、なんの興味もないことを除いては。

 

 午後になって、澪は市役所を出て酒田市立資料館に向かった。資料館は近い。歩いても五分ほどだ。

 その途中、市役所がある本町通りに面して、旧鐙屋本間家旧本邸という史跡がある。その前は数えきれないほど通っているが、中に入ったことはない。漠然と北前船と関係があることは知っていたが……

『じゃあ、風見君、君の仕事はしばらく北前船について学ぶことだから。あぁ、心配はいらない。独学なんて効率の悪いことはさせないから。いい先生に頼んである。

 ──酒田市立資料館の北浦さん』

 田辺には笑顔で送り出されたものの、澪は正直、気が重かった。人見知りとまではいわないが、コミュニケーションに長けている方とは思えない。初対面の男とこれから数日、マンツーマンで北前船……正直、あまり興味のないことを学ばなければならない。

……キツいなぁ」

 なるべくゆっくり歩いていたつもりだったが、気づいた時はもう酒田市立資料館の前に立っていた。

酒田市立資料館

 

 ここも、その前は数えきれないほど通っているが、中に入ったことはない。中学の時に社会科見学でこの資料館を訪ねるプログラムがあったが、インフルエンザで欠席して以来、ずっと縁がないままだ。

 資料館は二階建てで、そう大きな建物ではなかった。全体が茶色の煉瓦に覆われている。正面玄関の自動ドアを抜けて、入って右手にある受付を訪ねた。

 そこにいたスタッフに、所属と名前、学芸員の北浦を訪ねてきた旨を伝える。

 北浦が出てくるのを、澪は玄関ホールでぼんやり待っていた。正面に二階に通じる大きな階段がある。どうやら展示スペースは二階のようだ。

「お待たせしました、北浦です」

……

 一階奥の暗がりから出てきた背の高い青年の顔を見て、澪は戸惑った。北前船の専門家という話から、自然と年輩の人物を想像していたからだ。

 だが、実際の北浦は若い男性だった。さすがに澪よりも年上だが、三十手前くらいに見える。白いシャツを着た胸板は厚く、アスリートのようだ。だが、顔は細面で目つきは鋭かったが、どこか神経質そうで、やはり学者めいた風貌をしていた。

 

 

第1回終わり 第2回へ続く

毎週金曜日更新 次回更新日:8/10

動画「北前船 西廻り航路の秘宝」はこちら